2008年10月30日 (木)

土井美和子さんが小劇場演劇に残したもの

演劇ジャーナリストの土井美和子さん(2008年8月15日、胃ガンのため亡くなられた)と1990年代前半、演劇記事の仕事を手伝うなどの形で親しくしていた。土井さんとの交流は、1989年ごろ、私がどこかの劇場で見かけて、声を掛けたのが始まりである。土井さんの顔は『演劇ぶっく』に載っていたので、知っていた。小劇場ファンなら誰でも知っているような雑誌に、顔写真付きで記事を載せているのだから、私にとってはあこがれの存在であった。事実、フリーランスで演劇専門に取材・執筆するライターの先駆である。

私は当時、演劇ライターの道を開いてくれた初日通信から離れ、新しい展開を探っていた。相談すると、1990年に『東京ウォーカー』が創刊され、中の演劇情報欄の記事を土井さんが担当することになり(この欄は、書評、競馬評論などでも有名な豊崎由美さんも書いていた)、その記事をときどき、私に回してくれるようになった。

そのうちに土井さんは、著名演劇人のインタビュー集『板の上のファイターたち』(1993年、毎日新聞社刊)の取材・執筆で忙しくなった。同書中の10人のインタビューのうち、1人は私がテープ起こしを手伝った。その出版後、私がときどき書いていた産経新聞のコラム「履歴書拝見」に土井さんを推薦した。このコラムは、企業内または独立して、ユニークな仕事をしている女性を取り上げるもので、1994年1月18日に土井さんが載った。

その後、土井さんは文化庁委嘱の芸術情報プラザの演劇アドバイザーに就き、全国の公共劇場からの、「うちの劇場の主催公演には、どこの劇団、どの作品を招いたらいいか」といった相談に応じたりする仕事で忙しくなった。この辺りまではまだ、私と土井さんは劇場で顔を合わせたりしていたが、2000年度~2005年度、土井さんが早稲田大学文学部非常勤講師としてアートマネージメントなどの講義をしていたころは、年賀状だけの付き合いになった。

2006年の年賀状に「04年12月、胃癌の大手術をして、病気とは共生中」と印刷されてあった。それにもかかわらず、舞台づくり(『劇的リーディング』シリーズ)をしたり、早稲田大学演劇博物館"日欧・日亜比較演劇総合プロジェクト"メンバーとして研究活動していた。2007年には、文化庁海外留学生としてイギリスに滞在した。留学したことは知らなかったが、文化庁の制度を利用して留学することを、土井さんは以前から望んでいて、いつだったか、「××さんは文化庁に強力なコネがあるから、内緒だけど、優先的に留学させてもらえたのよ。ひどい。私が行きたいのに」などと聞かされたことがある。

大阪生まれの土井さんは、母親のおなかにいた時から宝塚の舞台を見ていた、という環境で育ち、小学校4年生で西野バレエ団(金井克子、由美かおるらが輩出)に入り、中学からジャズダンスも始め、高校2年の時、発表会で初めて振付を手掛ける。早稲田大学ではミュージカル研究会に所属、大学4年の時に東京キッドブラザーズに参加。その後も劇団暫、ミスタースリムカンパニー、劇団第三舞台、コント赤信号、劇団ランプティ・パンプティ…と70~80年代の演劇界に名を残した劇団をはじめ、さまざまな劇団やプロデュース公演に振付、演出などとして係わった。一方、大学4年生の時、アルバイトで『女性セブン』の取材記者をしたのがきっかけで、演劇ジャーナリストの道も歩み始めた。

実際に舞台づくりに携わっている人だけに、基本をないがしろにする態度は許さなかった。例えば、ある人気小劇場劇団の舞台で、クライマックスの銃を撃つ場面で火薬が破裂せず、場面が台無しになったのを見て、「ああいう場面がある時には、破裂しない場合に備えて、事前に音響が発砲音を仕込んでおいて、もし破裂しなかったら、すぐ、音響が音を出さなくてはいけないのに。あの劇団は基本がなってない」と批判した。

早稲田大学大学院を修了した直後の1983年の夏、第三舞台で初めてダンス指導に携わり、その後85年まで、第三舞台の5本の舞台で振付を担当した。第三舞台の劇中ダンスには、俳優が発する独特の雰囲気、言い換えればキャラクターの魅力を、より強く感じさせる効果があった。ダンスのテクニックを披露するだけでもなければ、素のまま居るだけでもない。キャラクターを維持しながら踊るので、舞台全体の流れを壊さず、逆によいアクセントを加える。あのスタイルは、第三舞台が確立し、ほかの多くの劇団に影響を与え、小劇場演劇の特徴の一つと言ってもいいだろう。

土井さんは、商業演劇のミュージカルなどの出演者についても、ダンスがうまいだけでなく、踊りながら自身を魅力的に見せるように演技できる人を高く評価した。そういう土井さんの演劇&ダンスのセンスと、舞台づくりに対する厳しさ、そして、一緒によい作品をつくりましょう、という思いで芝居をやる人々に接する優しさが、あの第三舞台のダンス・スタイルの底に流れているのだろう。

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2007年11月29日 (木)

劇団ショーマの公開ゲネプロ

高橋いさを率いる劇団ショーマは87~88年ごろ、本公演に「プレビュー公演」という企画を付けた(いつまで続けたか不明)。アメリカのブロードウェイでは、新しい芝居を掛ける時に、まず客の反応を見るためにプレビュー公演を行い、その結果次第では、内容の大幅改変や公演中止もあり得る。そのシステムを小劇場に採り入れて話題をまきたい、という意図もあったようだが、実際は「公開ゲネプロ」、つまり、どこの劇団でも行う本番直前の通し稽古を、本公演より割安価格で見せる、というもの。翌日から本公演をやることが決まっていて、客の反応次第では公演中止もあり得るプレビューとは、少し性格が違った。

ちなみに、私は『アメリカの夜』(87年11月、シアタートップス)『極楽トンボの終わらない明日』(88年6月、ザ・スズナリ)『新版ある日、ぼくらは夢の中で出会う』(88年10月、シアタートップス)のプレビュー公演を見た。私の記録によると、『アメリカの夜』の前のショーマ公演は前売りチケット代が1,800円、『アメリカの夜』『極楽トンボ―』のプレビュー公演の代金は1,000円とある。

この3回の公開ゲネプロの様子がノートに残っている(ただし、『アメリカの夜』のプレビューについては、その時書いたのではなく、『極楽トンボ―』のプレピューのメモを書く時に、思い出しながら書いたもの)。こんなことをメモした大きな理由は、当時の小劇場ファンらの間で、ショーマと、その作・演出の高橋いさをへの注目度が高かったからだ。

「初日通信」186号(87年11月19日発行)で「中林修治」(199号まで使われた筆名)こと小森収さんは、『アメリカの夜』について「物語がスリリングでサスペンスフルで、娯楽の舞台としてのおもしろさに満ちている」などと書いた。そのころ、ショーマは自分たちの作品の特色について「超虚構」という言葉を使い、日常の中に物語の世界が入り混じるような作品にこだわっていたが、『アメリカの夜』では、そのこだわりを残しつつ、一段上の面白さを生みだした、といった評価をしている。末尾では「ほんとうのことを言うと、手練のおもしろさを十二分に楽しみつつ、しかし高橋いさをの才能は、ここで終わっては絶対にならないとオレは思う。『アメリカの夜』はエンタテイメントの魅力をあますところなく発揮しているが、ほんとうの成果はその上に花開くべきものである」という期待もかけている。

私にとっても当時のショーマは、毎公演、楽しみにしている劇団の一つで、脚本・演出に加えて演技陣にも魅力を感じていた。とはいえ、毎回わざわざゲネプロに出かけて、その時に起きたことをメモして、小森さんに情報提供していたのは、小森さんと、「初日通信」の読者の、ショーマに対する関心の高さを意識してのことだった。大したことはメモしてなくて、「初日通信」の「Buzz Banks」のネタにもされなかったが、3回分のメモを見ると、細かい部分が少しずつ変化していることが分かる。プレビューをありのまま見せるのではなく、客に見せるために、演出とか配慮とかしていたのは明らかだ。

『アメリカの夜』/シアタートップス:開演前に制作の男性が、場内の客の出入り口近くに立って「きょうはプレビューで、割引です。皆さん、ご意見をお願いします。うちは貧乏ですから、宣伝してください」などとあいさつして「作・演出の高橋いさをを紹介します」と言う。その言葉で、客の出入り口から高橋が登場し、そのまま、客席中央列より少し後方上手側、通路に面した席に着く。その席には、手元にライトがつく小テープルが置いてある。高橋が着席して、多分、キューを出したのだと思う。それから芝居が始まった。

『極楽トンボの終わらない明日』/ザ・スズナリ:開演前、高橋はロビーのソファに深く座っている。午後7時30分の開演時刻ぴったりに客席に入り、最後列より一つ手前の、やや上手寄りに座る。ライト付きのテープルは無い。そこで観客を無視して「これからゲネプロを開始する。舞監さん、いいですか」と大声で言う。すると舞監が「もう少し待ってください」と。それから1分ぐらいして舞監が「OKです」。それを受けて高橋が「では始めます。客入れ最後の曲が切れるところから」などと合図すると、芝居が始まった。芝居が終わると、カーテンコールはあったが、言葉によるあいさつは無い。終演後、制作スタッフなどが客席に向かって「アンケート、お願いします」などと声を掛けることも無かった。

なお、舞監が「もう少し待ってください」と言ったのを、私は、ゲネプロの雰囲気を感じさせるための段取り(「芝居」と言うべきか)かと思った。だが後で確認したら、本当に「まだ」だったそうだ。また、前回、制作の男性が高橋を紹介する形は不自然だから、(劇団員から「高橋ばかり目立つから」という批判もあったとか)、自然にありのままやろう、ということでスタイルを変えた、と言う。

『新版ある日、ぼくらは夢の中で出会う』/シアタートップス:開演時刻の19時30分ごろ、制作の男性が場内に入って「まだお客さまがいらっしゃるようなので、あと10分ぐらいお待ちください」と言う。すると、客席出入り口から、高橋が一般客のような雰囲気で、バッグを提げて入ってきて、出入り口近くの、通路の上手側に1つだけある席に着き、チラシなどを見ている。それから10分後に、先ほどの制作の男性が場内に来て、客席背後の調整室の人と目を合わせ、なぜか立ち位置を相談、結局、『アメリカの夜』の時と同じ、出入り口付近に立つ。そして「きょう、お見えになったお客さまはこの後、パーティーに招待しようと思いましたが、『自粛』(昭和が終わる前の数カ月間、全国に広まった特殊事情)することにしました」とネタを入れながらあいさつ。さらに「前回、プレビューのお客さんに『アンケートを書いていただきたい』と言いませんでしたが、皆さんの一言が大切ですので、ぜひ書いてください」、最後に「最前列に取材カメラ(5台ぐらい)が並んで、シャッター音がするのを了承してほしい」と言う。この制作の男性が引っ込むと芝居が始まった。

これらの公開ゲネプロは、その前におそらく関係者だけのゲネプロもやったのだろう、と思わせるほど、取り立てて不備などは感じなかった。高橋は『極楽トンボ―』のとき、「ゲネプロの途中で、演出家が『そこ、ストップ』とどなって芝居を中断させるのが、演出家としてはいちばんイイところ。でも、公開ゲネプロで本当にそれをやって、『そっち(芝居を中断させること)の方が面白い』と言われたら、問題だけど」などと話していた。この3回の中では「そこ、ストップ」はやっていない。

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2007年10月 2日 (火)

転形劇場のラストステージ

2007年7月に亡くなった太田省吾さんが、かつて率いていた劇団転形劇場を最後に見たのは、1988年の秋だった。この年、解散を決めた転形劇場は、9月末から11月中旬にかけて、「ラストステージ」と題して『小町風伝』『水の休日』『水の駅』の3作品を、練馬区羽沢のT2スタジオ(現・スタジオPAC)で上演した。そのうち、私は『小町風伝』と『水の駅』を見た。同年11月3日発行の「初日通信」235号の柿おとし氏の文章によると、解散の理由は「85年に開設したT2スタジオの経済的負担」とある。

『小町風伝』は、もとは能舞台で演じられたもので、この公演では、T2スタジオの空間を能舞台風につくり変えた。このスタジオには中に大きな柱があり、いつもはジャマに感じたが、この時は能舞台の柱(目付柱)の位置に合わせて舞台空間がしつらえてあったので、「当たり前のところに柱がある」という印象を受けた。

私が『小町風伝』を見たのは9月30日で、この公演のチケットを、劇団に電話予約した時点(9月19日以前)では、会場は日比谷シティだった。日比谷公園の南側、日比谷国際ビルなどに囲まれた、ビルの谷間の広場で、毎年、産経新聞主催で「日比谷シティ夜能」と題して能などの公演を行っている。この時の『小町風伝』公演は、その企画の一つとして演じる予定だったのだろう。だが、9月20日に劇団から電話がかかってきて「きのう、主催の日比谷シティと産経新聞が下りたので」と会場、時刻の変更を伝えられた。料金も、日比谷シティでは指定席3,000円、自由席2,800円の設定だったが、全席自由で2,500円に変わった。

主催が降りた理由は私のメモには書いていない。だが、はっきりしている。当時は、わざわざ書く必要がなかった。電話が来た日から3カ月半後に昭和が終わった。終わる前の数カ月間、「ご病気」を理由に全国で、祭りやそれに類するイベントの「自粛」が相次いだ。この出来事もその一つだったのだ。転形劇場という集団や『小町風伝』という作品の問題ではなく、都会のど真ん中の、大勢の目に触れる場所で屋外公演をやることに「祭り」のイメージが強く、しかも皇居の近くだったことが、「自粛」せざるをえなかった理由だろう。

とは言っても、転形劇場にとっても、そのファンにとっても、「自粛」で劇団が不利益をこうむることに、当然、納得できなかった。『小町風伝』の劇中、男が新聞を読んで、その新聞をけなすシーンがある。その場で読まれていた新聞は「産経新聞」だと、観客にはっきり分かった。「当てつけ」と受け取られた。

幕が下りると、いつもの通り、座長格の男優が簡単にあいさつした後、珍しく太田氏もあいさつした。「この公演が実現できたのをうれしく思います」などと淡々と語り、劇団の解散理由について「芸術上の問題」として説明した。話は5分ぐらいで終わった。

『水の駅』は千秋楽4日前の11月9日に見た。この作品は、転形劇場の代表作で、せりふは無い。舞台の一角に、水が出っぱなしの蛇口があり、舞台上にいろいろな人々が来て、いろいろなことをして去っていく、という作品だ。この時も終演後に太田省吾さんがあいさつした。その内容を、私のメモに次のように書いてある。()内はこのブログ用の注。

「現在は、演劇に限らず、時間と空間を埋めてつくる。しかしこの芝居(『水の駅』)は反対に、いわば裸で、テンポとか言葉をはぎとっていってつくった。はぎとった人間の方が素敵だと思ったから」

「このまま劇団を続けるのは、文章を改行せずに書いていくようなもの。『一度、改行しなくては駄目だ』と(劇団内で意見が)一致した。みんな、これから何をやるかは分からないだろうが」

「あと4回で終わり、となったけれど、きょうは水(舞台上の蛇口から出る水)の出の調子が悪くて、もっと少なく出るのが良いのだけれど。赤坂のスタジオ(T2に移る前の劇団の拠点)での初演の時もそうだったけれど、毎日、水の番をしている。このこと(水の調整)に神経を取られていて『やめる』ということに頭が回らない。でも、これで終わります」

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2007年8月17日 (金)

段田安則のこまつ座初出演

今月(2007年8月)、世田谷パブリックシアターで、こまつ座とシス・カンパニー企画・製作で井上ひさし作、栗山民也演出『ロマンス』が上演された。公演パンフレットには各出演者のインタビューが載っている。その一人、段田安則へのインタビューは「段田さんは遊眠社時代に早くも井上作品に出演していますね」という質問で始まり、それに対して「二十年近く前、こまつ座さんの『イヌの仇討』です。井上先生の舞台は俳優になる前から見ていましたし、出たかったのでとても嬉しかった」などと段田が答えている。

赤穂浪士の討ち入りを、吉良上野介の側から書いた『イヌの仇討』(1988年9月初演)に段田が出演した経緯を、私は、この公演の紹介記事を書くため、こまつ座に取材した際、聞いた。ただし、取材した公演初日2カ月前には、段田が出演するはずの舞台のタイトルは『長屋の仇討』だった。台本はできてなく、取材に応じた制作スタッフから聞いた「現時点で決まっている構想」は「江戸時代、石高が低い藩の、江戸詰めの家来が住む侍長屋がある。貧乏だから、住まいは屋敷ではなく、長屋なのだ。そこで暮らす、いわば平凡な人にある日、仇討ちという大事件が起きる」。私は、本番では、構想と多少変わるかもしれないが、設定がそっくり変わるとは思わなかった(変わる可能性が皆無だとは思わなかったが、ほかに書きようがない)ので、そのまま、情報誌に書いた。

段田は『イヌの仇討』で、実在の茶坊主、春斎を演じたが、構想段階ではどんな役をやるかは決まっていなかった。当時、こまつ座で新作をやる場合、井上ひさしが「今度、こういう芝居をやるから、こういう役ができる人を」と制作スタッフに注文、それを受けてスタッフが俳優を集める、という話だった。『長屋の仇討』の話が決まった時は、長屋に出入りする魚屋のあんちゃんとして中西良太、きゃぴきゃぴの下町娘として矢代朝子(いずれも実際は違う役)が、採用された。だが段田は違った。

段田起用の発端は、こまつ座のスタッフに夢の遊眠社のファンがいて、あそこの俳優を使おう、という話になったから、だそうだ。そこで何人かの制作スタッフが遊眠社の舞台を見に行ったところ、「段田がいい」ということで一致、遊眠社に打診した。井上には段田のプロフィールと写真を見せたところ、「非常に面白そう。いろいろ書き込める」と期待を掛けた。段田の出演が決まったのは公演の半年ぐらい前、という。

段田の演じた春斎について、劇評ニューズレター「初日通信」で皆月みどりさんは「なかなかトボケていて面白い」などとプラスに評価している。遊眠社の舞台では、段田は、ほかの俳優と同様、舞台を派手に動き回ったり、テンポよく、コミカルなせりふ回しや動きで笑いを取ったりしていたが、中心男優の中では、器用で演技やせりふの技術も確か、という印象があった。こまつ座の制作スタッフが選んだのも、うなずける。

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2007年7月 1日 (日)

20年前の取材ノート

演劇をよく見るようになったのは1980年ごろから。最もよく見たのは90年前後で、そのころ、演劇雑誌の仕事を定期的にしていたので、小劇場演劇や商業演劇に関連した取材にもよく出かけた。

6月中旬、劇評サイト「ワンダーランド」 http://www.wonderlands.jp/ の北嶋孝さんとお会いした。80年代から90年初めにかけて、小森収さんが発行していた劇評の週刊ニューズレター「初日通信」について、私が、もう一つのブログ「まちと表現、そして劇場」 http://blog.goo.ne.jp/tuhat/ に書いたのを読まれ、「初日通信について知っているなら、話を聞きたい」と言ってこられたからだ。

私は、「初日通信」に劇評を書いたことはない。87年に「初日通信」の読者になり、翌年、小森さんが、演劇専門の編集プロダクションというか、演劇に詳しいライター集団のようなことを企画した際、そのライターに加えてもらい、1年ぐらい、小森さんの下で演劇ライター修業をした。その間、演劇関係の取材のこぼれ話や、観劇メモなどを整理して、ときどき、小森さんに伝えていた。当時、「初日通信」の劇評の後に、月1回ぐらい、「Buzz Banks」と題した演劇界のうわさ話集が載ったが、その中に、私が伝えた情報から小森さんがピックアップした話も混じっていた。ただ、私が提供したネタで、「Buzz Banks」で紹介されたネタは、わずかだった気がする。

北嶋さんと会う前に、「初日通信」をしまい込んであった箱を開けたら、「Buzz Banks」用のノートが出てきた。北嶋さんに「初日通信」を何部か見せるのと一緒に、そのノートもちょっと見せたら、「取材ノートがあるなら、当時のことを書いたらどうか」と勧められた。ブログに少しずつ書いていったらどうか、と。

確かに、このノートを見ると、今、紹介したら面白がられるかも、と感ずる話が書いてある。しかし、件数は大したこと無い。ただ、当時の演劇資料はノートだけではないから、その気になれば、あれこれひねり出せそうだ。

と言うわけで、その気になった。仕事の合間を見て、少しずつ書き進めるつもりだ。もう一つのブログには「現在」、こちらには「過去」を、と考えている。

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