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2007年10月

2007年10月 2日 (火)

転形劇場のラストステージ

2007年7月に亡くなった太田省吾さんが、かつて率いていた劇団転形劇場を最後に見たのは、1988年の秋だった。この年、解散を決めた転形劇場は、9月末から11月中旬にかけて、「ラストステージ」と題して『小町風伝』『水の休日』『水の駅』の3作品を、練馬区羽沢のT2スタジオ(現・スタジオPAC)で上演した。そのうち、私は『小町風伝』と『水の駅』を見た。同年11月3日発行の「初日通信」235号の柿おとし氏の文章によると、解散の理由は「85年に開設したT2スタジオの経済的負担」とある。

『小町風伝』は、もとは能舞台で演じられたもので、この公演では、T2スタジオの空間を能舞台風につくり変えた。このスタジオには中に大きな柱があり、いつもはジャマに感じたが、この時は能舞台の柱(目付柱)の位置に合わせて舞台空間がしつらえてあったので、「当たり前のところに柱がある」という印象を受けた。

私が『小町風伝』を見たのは9月30日で、この公演のチケットを、劇団に電話予約した時点(9月19日以前)では、会場は日比谷シティだった。日比谷公園の南側、日比谷国際ビルなどに囲まれた、ビルの谷間の広場で、毎年、産経新聞主催で「日比谷シティ夜能」と題して能などの公演を行っている。この時の『小町風伝』公演は、その企画の一つとして演じる予定だったのだろう。だが、9月20日に劇団から電話がかかってきて「きのう、主催の日比谷シティと産経新聞が下りたので」と会場、時刻の変更を伝えられた。料金も、日比谷シティでは指定席3,000円、自由席2,800円の設定だったが、全席自由で2,500円に変わった。

主催が降りた理由は私のメモには書いていない。だが、はっきりしている。当時は、わざわざ書く必要がなかった。電話が来た日から3カ月半後に昭和が終わった。終わる前の数カ月間、「ご病気」を理由に全国で、祭りやそれに類するイベントの「自粛」が相次いだ。この出来事もその一つだったのだ。転形劇場という集団や『小町風伝』という作品の問題ではなく、都会のど真ん中の、大勢の目に触れる場所で屋外公演をやることに「祭り」のイメージが強く、しかも皇居の近くだったことが、「自粛」せざるをえなかった理由だろう。

とは言っても、転形劇場にとっても、そのファンにとっても、「自粛」で劇団が不利益をこうむることに、当然、納得できなかった。『小町風伝』の劇中、男が新聞を読んで、その新聞をけなすシーンがある。その場で読まれていた新聞は「産経新聞」だと、観客にはっきり分かった。「当てつけ」と受け取られた。

幕が下りると、いつもの通り、座長格の男優が簡単にあいさつした後、珍しく太田氏もあいさつした。「この公演が実現できたのをうれしく思います」などと淡々と語り、劇団の解散理由について「芸術上の問題」として説明した。話は5分ぐらいで終わった。

『水の駅』は千秋楽4日前の11月9日に見た。この作品は、転形劇場の代表作で、せりふは無い。舞台の一角に、水が出っぱなしの蛇口があり、舞台上にいろいろな人々が来て、いろいろなことをして去っていく、という作品だ。この時も終演後に太田省吾さんがあいさつした。その内容を、私のメモに次のように書いてある。()内はこのブログ用の注。

「現在は、演劇に限らず、時間と空間を埋めてつくる。しかしこの芝居(『水の駅』)は反対に、いわば裸で、テンポとか言葉をはぎとっていってつくった。はぎとった人間の方が素敵だと思ったから」

「このまま劇団を続けるのは、文章を改行せずに書いていくようなもの。『一度、改行しなくては駄目だ』と(劇団内で意見が)一致した。みんな、これから何をやるかは分からないだろうが」

「あと4回で終わり、となったけれど、きょうは水(舞台上の蛇口から出る水)の出の調子が悪くて、もっと少なく出るのが良いのだけれど。赤坂のスタジオ(T2に移る前の劇団の拠点)での初演の時もそうだったけれど、毎日、水の番をしている。このこと(水の調整)に神経を取られていて『やめる』ということに頭が回らない。でも、これで終わります」

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