« 2008年10月 | トップページ | 2010年12月 »

2009年9月

2009年9月17日 (木)

つかこうへいが戻った日

1988年10月初めの日曜の夜、新宿でつかこうへいの記者会見があった。場所は新宿区北新宿、現在、新宿村という貸スタジオ群があるところだ。そこに演劇集団円のけいこ場があり、会見の前に、円の次回公演『今日子』の公開げいこが行われた。

『今日子』はその翌年1~2月、新宿のシアター・サンモールのこけら落とし公演として上演された。つかこうへいが、「この女優の体を使って何かつくってみたい」と思わせた岸田今日子を主演に作・演出。岸田は、銀幕の大女優という設定の役で、彼女に監督やら映画会社の副社長らが絡んで展開する。

しかし、公開げいこでは、当時の円の中堅と若手(メモに残っていないが、確か、北見敏之、塩見三省、木下浩之、山崎健二、平栗あつみはいたと思う)が、新撰組と坂本龍馬をモチーフにした芝居を見せた。後で思えば、翌年9月に渋谷PARCO劇場で上演された『幕末純情伝』の一端だ。PARCOでの本公演では、西岡徳馬、春田純一など円以外の俳優が主要な役を担ったが、平栗だけは、公開げいこの時も、『今日子』公演での「予告篇」でも、そして公演でも、沖田総司役を務め続けた。

円とつかこうへいを結び付けたのは、つか原作の映画『青春かけおち編』に岸田が出演したこと。それが縁でつかは岸田を気に入り「一緒に芝居づくりを」となった。1989年7月に、試しに5日間ほど、円の一部の俳優(主に若手。と言っても岸田らと比べての「若手」であって、北見、塩見、山崎は既に「中堅」に入っていた、と言える)と5日間、ワークショップをした。つか独特の口立てでせりふをつけながら、芝居をつくり上げる方法に、初めは戸惑っていた円のメンバーも、やがて乗り気になって、急きょ本公演を、それならサンモールのこけら落としにぴったり、と話が進んだという。

記者会見ではつかと岸田が並び、この公演に関する話が続いた。質問した記者の一人(当時、『ぴあ』の演劇担当記者だった気がする)は、つか作品に詳しく、次回作の見どころを聞く、というか確認するような感じで、気軽にやりとりしていた。

私は、そこで、大きな違和感に襲われた。その6年前につかは、つかこうへい事務所を解散して、それまで一緒に組んでいた風間杜夫、平田満、加藤健一などの俳優と離れて「執筆業に専念」すると宣言し、もう演劇から縁を切った人、と見られていた。その後一度、韓国の俳優と『ソウル版熱海殺人事件』を手掛けたが、あとの仕事は小説と映画シナリオの執筆のはず。それが、新作舞台の作・演出として戻ってくるのだ。チケット販売の情報誌のため、「つかこうへいの記者会見に行ってきて」と差し向けられた私は、この会見場には特別な雰囲気があるのでは、と予想した。ところが実際は、つかの口ぶりにも、態度にも、「演劇から離れるとは言ったけれど、やっぱり戻ってきてしまった」という人が見せるだろう、恥ずかしそうな様子もなければ、再出発の時の緊張感みたいなものも全然なかった。私は拍子抜けし、そして思った。「これが、つかこうへいだ」と。

さて、こうしてつくられた舞台について、「初日通信」246号(1989年1月26日発行)の小森収は「つかこうへいの復帰はとりあえず喜ばしい。代替不可能な才能がすっぽり抜け落ちているような、そんな状態が終わったのだから、それは喜ぶべきことだ。と、その点だけ押さえておいて、しかし『今日子』はつまらない」と書いた。一方、次の『幕末純情伝』については同274号(1989年8月10日発行)で「『今日子』などより数等見応えのある舞台である」と評した。

実は、小森さんは、主演した平栗あつみのファンだった(『初日通信』の記事に自ら書いている)。しかし、そのことを考慮しても、この2作に対する小森さんの評価が当たっていることを、私は疑わない。その理由の一つは、この会見の時に既に、つかは『今日子』よりも『幕末純情伝』に力を入れていた、と察せられるからだ。

会見当日の公開稽古で、つかが、平栗や北見らに口立てで芝居を付けていた時、かなり気合が入っていて、というか、のっていて、思いついたせりふを、次々と俳優に投げていた。私はこの時初めて、つかの口立て芝居の才能を思い知らされたのだが、あの時は、普通以上にのっていたのかもしれない。『今日子』の場面も少し見せたように記憶するが、その印象は薄い。たまたま、龍馬や総司らが出る芝居のけいこ風景を見せたのではなく、つかが、『今日子』よりも、こちらの芝居が気に入っていたから、わざと見せたのではないか、と推察する余地は大いにある。

会見後、私は円の制作の斉藤美代子さん(現在は劇「小」劇場支配人)に「あの場面は何ですか」と尋ねると「『今日子』の場面ではなく、つかさん一流のお遊び、ウォーミングアップ」と答えた。しかし、「お遊び」で終わらず、翌年パルコで、商業ベースに載せられる顔ぶれでの本公演へと発展した。公開げいこの時に既に、少なくともつかの頭の中では、あの場面は「お遊び」以上の位置を占めていたのでは、という気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年10月 | トップページ | 2010年12月 »